明親館跡
久世は山田方谷の施した教育の影響を受けた地であり、遷喬小学校を始めとして方谷の命名が残る学舎の跡があります。
名前の由来
「智仁義徳武に親しむことで明(ひら)けた国にする」の思いがこめられています
はじまり
津山藩の有志により目木・河内の郷学として開かれました。血税一揆の際、焼き討ちにあって廃館となり、現在は公園となっています。
現在は小さな公園となっており、奥手に社があります。
歴史が綴られています。
真庭市指定文化財 史跡
明親館跡
昭和四十三年五月一日指定
明治三年〔一八七〇〕津山藩の目木触(ふれ)・河内
触有志の発起により両触の郷学として、
早川代官ゆかりの地に創設されました。
備中聖人と称された山田方谷を顧問に、
方谷の門人を講師に迎えました。
明視館の名は、「智仁義徳武に親しむ」
(親)ことによって「ひらけた国にする」(明)
の意味で、方谷自ら命名しました。
明治六年(一八七三)に血税一揆の焼き討ち
にあったことなどから、廃止されました。
平成十四年三月一日
真庭市教育委員会
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