さ・ん・ぽ みまさか
岡山県北・美作地方の道草情報
美作地方のいろいろです。
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美作の国(みまさかのくに)
古代は弥生時代の遺跡が多く発見されています。
また、古墳時代になると津山の美和山古墳 勝央町植月寺山古墳など有名な古墳や学術的に価値のある調査が行われました。この地域では陶棺が多いことが特徴です。
大和朝廷が力を強めると、吉備氏の勢力を弱めるため、徐々に律令制が敷かれていくようになりました。和銅六年(713年)奈良時代に備前国から六郡が割かれ、美作国と呼ばれるようになりました。その六郡は
英田 勝田(かつまた) 苫田 久米 大庭(おおむは) 真島
となります。
美作国は上国とされ初代美作守は上毛野堅身(かみつけぬのかたみ)が備前国より引き継ぎました。同時に仏寺も建立されて行きました。奈義には法然上人が幼少期に学んだ菩提寺があります。
しかしながら、大和朝廷が街道沿いに拠点とした盆地は吉備高原の一角に接しており、山野にはその影響力を完全に及ばせることはできませんでした。美作国の住人はむしろその周辺の地域と深く結びつき、権勢はのびやかでした。
戦国時代になると、毛利と良好な関係にあった当地に織田信長の軍勢が現れ、織田側に与することを意図した宇喜多直家が毛利との関係を破棄し、地方の国人が持つ城を襲い次々と関係のあった城主を暗殺する(元々主君暗殺で主取りしており、この乱世の処し方が岡山県の南と北の民衆の性格の違いにも反映されています)といった手口で北上しながら領土を広げて行きました。この働きで後に木下藤吉朗の口添えで殲滅を免れ織田側に降伏を許されますが、その間美作の国一帯の山城は毛利宇喜多の最前線となり、多くの国人衆武士が滅ぼされています。日本最古の古武術と呼ばれる竹内流の祖となる城主も垪和の一ノ瀬城で迎え撃ちますが敗れます。「美作で棒を振るな」という言葉がありますが、これは竹内流の影響力の下で棒術に優れた者が多かったからと言われます。現在その名残は農村芸能の神事にも息づいています。
美作地方は古代より良質な木材の産地とされ、その材は寺院や屋敷の建立に使われるため近畿地方へと運ばれました。旭川と吉井川、二大河川へ注ぐ多数の支流が合流する場所には筏場が設けられ、山林から切り出した木材が次々と積まれました。
山国にありながら水運が開けており、中世になると因幡街道・出雲街道が山陰に走り鉄を産するこの地には商業が栄えました。本能寺の変の後、匿われた森家が領主を任ぜられた時、元々吉備地方の山野には賊が潜み治安の悪い場所であった上、毛利方残党も多いとされたため山陰から作州に移ったと言われます。ほどなくして県北の中心地である津山の吉井川に囲まれた高地に山を拓いて城が築かれ、その城下を中心に本格的な都市作りが始まりました。